2009年1月30日

20世紀少年

浦沢直樹『20世紀少年』『21世紀少年』を、遅ればせながら読了。『MONSTER』のときもそうだったけど、やっぱり、浦沢直樹はエンターテイナーだ。マンガ雑誌に連載するというカタチで作品を発表するのが浦沢らしいというか、読者にとってもそういう読み方しないとダメかもしれない。
俺はマンガは基本的に「連載が終わったもの」しか読まないようにしてる。休載や打ち切りで失望した少年時代のトラウマがそうさせているのかもしれない。連載が終わって、単行本が出て(文庫本が出て)、完結したものなら安心して読める。ちゃんと終わりが来るんだ、着地点があるんだ、って。だから、亡くなったマンガ家の作品は無条件で読み始められるんだけどね。未完であっても。少なくとも「続くのか続かないで打ち切りなのかわかんない」っていう状態ではないから。
で、浦沢直樹の場合は、読んでいる間はずっと面白くて、惹きつけられて、新たな展開に驚いて、「謎」の種明かしを早くしてほしくて、あっという間に読んでしまうわけだけど、そして結局、「ある程度」満足して読了できるんだけど、読み終わった後しばらくすると全然たいした事ないなって思っちゃう。何も残らないというか。まあ、その辺は人それぞれだからなんとも言えないけど。
だけど、だから「つまんない」ってわけじゃないんだ。惹きつけられて、ページ繰るのに没頭して、いつもの半分しかタバコ吸わないで、トイレもぎりぎりまで我慢して読んじゃうくらい面白いんだ。
どういうことかというと、これは「エンターテインメント」なんだ、ってこと。それ自体を楽しんでいるその瞬間だけが面白いというか。「もしかしたらこれはすごい作品かも」っていう期待をずっと保ちながら読了できるというか。うん、その期待はほとんど裏切られるんだけど。
つまらんと思いつつ、買ってしまった義理で読んでしまった「たいしたことない」作品が、なぜだか心に残ることがある。浦沢直樹の場合はその逆だ。おもしろいと思って買って、おもしろいと思いながら読んだ「たいした」作品のはずが、喉元を過ぎると、空疎になってしまうのだ。
だから、浦沢直樹の作品のおもしろさを最大限に味わうなら、連載を毎回読むのが良いんだと思う。早く続きが読みたいっていう、ちょっとした興奮状態が連載中ずっと続くわけだから。「年」単位でね。その間ずっと面白いんだから。終わっちゃったら、終わっちゃうんだ、その興奮が。単行本大人買いで読むとなると、一日で終わっちゃう。
ほとんどのマンガはそういうもんだ、とも言える。そういう意味ではトップクラスのマンガ家だとも言える。
でも、浦沢直樹は手塚治虫にはなれないな、とも感じているこの頃。たぶん手塚治虫を目指しているんだろうなとは思うんだけど(『PLUTO』は鉄腕アトム関係だからね。名義からして、浦沢・手塚連立だし)。
で、今夜の金曜ロードショー『20世紀少年 第1章』ですが。観ます。大コケともっぱらの評判ですがw。何よりオッチョことショーグンを豊川悦司が演じるっていうんだから。それから、作中の音楽もちゃんと聴きながら楽しめるのがいいと思います。T-REX「20th Century Boy」ももちろんですが。
おまけ:
T-REX - 20th Century Boy
あとYouTubeにX JAPANが演奏する20th Century Boyも上がってました。Toshiがドラム叩いて、Yoshikiがギター弾いて、歌っているのは―
―なんと、hideでした。
あえて貼らないでおくので、観たい方はYouTubeで「20」と検索してください。

2009年1月23日

浅倉南の憂鬱、あるいは同一性、スワンプマン

ザ・たっちっていう双子のお笑いコンビいるじゃん。たくやとかずや。

持ちネタの一つに、熊と戦うやつあるじゃん。

どっちか(どっちでもいいんだけど)(じゃあ仮に立ち位置左のやつ)が熊になって、もう一人を襲う。両者が絡み合ってぐるぐる回って、一息ついて再び戦闘体勢に入ったとき、二人とも熊になっちゃって、「どっちだよ!」とツッコミ、っていうネタ。

二人とも同じ服着て同じ靴履いて同じ髪型で顔まで一緒だから、まあ、そのへんがおもしろいんだけど、あれ見てて俺は「あれっ?」って思ったの。

たぶん普通の人はそのネタ見たあと、たくやとかずやがどっちがどっちだかわかんなくなってると思う。たぶん元の立ち位置に戻ったんじゃねーの、とか思ってると思う。でも確実にはわからないよね。

で、俺が思ったのは、「こいつら(たっち)でさえ、どっちがどっちだかわからなくなることもなくはなくね?」ってこと。普通の人の直観からすると、「自分は自分、だから(いくら似てても)自分と他人は間違えるわけねーだろw」って思うと思うんだ。でも、もし全身まるまるコピーみたいな双子だとしたらどうなんの?まあたっちの場合、厳密に調べたら、ホクロがどっちについてるとか、そういう違いはあるけど。そういうの抜きで、ガチコピの双子だったら、「ハイ!今、この瞬間、あんたとあんた入れ換わったよ!」って言われたら、何も言い返せなくね?

もう少し話を突っ込ませてもらうと、たとえば一人の女性がたくやと付き合って婚約したとする。1年間付き合って、同棲とかもして、さあ明日は結婚式ですっていう日に、たくやとかずやがたくらんで入れ換わって、結婚式当日を迎えたとき、その女性は気づくだろうか?もっと言えば、その女性がたくやと結婚して生んだ赤ちゃんと、かずやと結婚して生んだ赤ちゃんってのは、まったく別人なのか?それとも(DNA配列が結果的に同じなのだから)結局同じ人間になるのか?

まあ、このたとえ話だと、一人の女性に二人の男性が同時に一人の胎児を孕ませることが必要になるから、実際のところ、確かめようがない。

しかし!

女性が二人だったらどうだろうか!

俺は、この無茶な前提を可能にする一つの例を持っている。

マナカナである。

マナカナもほとんどガチコピ人間だ。先ほどの例に倣って、そう仮定すれば、これは頭の中だけの問題ではなくなる。

たくやとマナ、かずやとカナ、まあ組み合わせはどっちでもいいんだけどこの際(^^;)、そういうカップルが結婚して、子どもを授かったとき、その子どもって・・・(似てるの、似てないの、もしくはDNA鑑定したらどんな結果出るの!)・・・。

まあ、マナカナによると、ザ・たっちは好みのタイプではないらしいので実現しそうにない(そっちの意味でかいw)けどね。興味はあるわな。



・・・意外と双子がツーペアできちゃったりして。

参考リンク
ある男が沼にハイキングに出かける。この男は不運にも沼のそばで、突然 雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばに落ちる。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥に化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一形状の生成物を生み出してしまう。
この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死んだ瞬間の男と同一の構造をしており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一である。沼を後にしたスワンプマンは、スタスタと街に帰っていく。そして死んだ男が住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。

2009年1月19日

ベロニカは死ぬことにした

真木よう子がヌードになったとかで、しかも真木よう子が「ヌード目的でもいいから観てほしい」とかコメントしたとかで、ちょっと話題になってた映画。

だがオナニーシーンうんぬんは俺はどうでもいい。しかも設定が日本になっちゃってて、ヒロインの名前が「ベロニカ」じゃなくて「トワ」に変更されて、題名からしておかしいことになっちゃった。で、レビューを検索して読んでみたら、「ヌードシーン以外は観る価値ない」みたいなことまで書いてあって、しょうがねぇなーっつって原作のパウロ・コエーリョ『ベロニカは死ぬことにした』を読んだわけだ。

ベロニカは全てを手にしていた。若さと美しさ、素敵なボーイフレンドたち、堅実な仕事、そして愛情溢れる家族。でも彼女は幸せではなかった。何かが欠けていた。ある朝、ベロニカは死ぬことに決め、睡眠薬を大量に飲んだ。だが目覚めると、そこは精神病院の中だった。自殺未遂の後遺症で残り数日となった人生を、狂人たちと過ごすことになってしまったベロニカ。しかし、そんな彼女の中で何かが変わり、人生の秘密が姿を現そうとしていた―。全世界四五ヵ国、五〇〇万人以上が感動した大ベストセラー。(Amazonより)


もうね、ブログのタイトル変えようと思った。「チョムゲは死ぬことにした」って。読む前からなかなか気に入ってて、読んでる間も変えようと思ってた。けど変えないことにした。また今度変えるかもしれないけど。

何ヶ所かドッグ・イヤーしたのでその中から一部を。

精神科医とマリーっていう患者のやりとり。
「わたしはもう治ったの?」
「いいや。きみは人と違うのに、同じようになりたいんだ。それは、わたしから見れば、とても深刻な病気だけどね」
「変わろうとすることが深刻な病気なの?」
「もし無理して自分を人と同じようにしようとするならね。それが神経症、精神病、パラノイアを引き起こすんだ。(略)」

ベロニカとエドアードのやりとり。
「わたしの顔を見て」と彼女は言った。「心の目で覚えておいて、いつか描けるように。もしあなたが望むなら、それがあなたの出発点になってもいいわ。でも必ず絵に戻ってちょうだい。それが最後のお願いよ。あなたは神を信じる?」
「信じるよ」
「それなら、あなたの信じてる神に誓って、わたしを描くと言って」
「誓うよ」
「そしてわたしを描いたら、それからずっと絵を描き続けて」
「そこまで誓えるかどうかは分からないよ」
「誓うのよ。まだあるの。わたしの人生に意味を与えてくれてありがとう。わたしはこれまで体験してきたことを全て体験するために、この世界に生まれてきたの。自殺未遂をして、自分の心臓を壊して、あなたに会って、この城まで来て、あなたの心にわたしの顔を刻みつけさせた。それが、わたしがこの世に生まれてきた唯一の理由なのよ。(略)」

ラストは、読んでる間になんとなくわかっちゃって、それでもちょっとmoved。良かったわ。

狂うことのできる贅沢。



ここから余談なんだけど、精神病院の中のお話だと、大学のころに観た「17歳のカルテ」は良かったですよ。「ベロニカ」で欲求不満になった方は観てみてください。



2009年1月17日

文学地図 大江と村上と二十年

大学にいた頃、村上春樹関連の批評を集める際に、加藤典洋のいわゆる「解説本」みたいなものを買った。この人はハルキマニアなんだなあと思っていた。

ここにきて(2008年12月25日)、『文学地図 大江と村上と二十年 (朝日選書)』が彼の手によって成った。

目次
はじめに

第一部 文芸時評の二十年

バブル期の文学―一九八九~一九九〇年
病原体と生きる/小説家の困難/家族の未知の表情/いくつかの秀作/無為と平凡/紙一重の差/驚くべき短編/悪の不敵な力/否定の明白さの必要/小説の「大きさ」/小説の「新しさ」/ただの初心者の輝き

湾岸戦争後期の思想と文学―一九九三~一九九五年
言葉としての憲法/安部公房的な問題/ポスト・モダニズム的な反動/二つの通俗性/没後一年の中上健次/佶屈と充実/ワークとビジネス/フェミニズムの自己更新/現実とシミュレーション/吉本ばななの虚構/異界の感覚の消失/不倫小説の深度/アジアと西欧の混淆/誰が読むか/福田恆存の死/ビートたけしの戦い

ゼロ年代の小説と批評―二〇〇六年~二〇〇八年
翻訳という批評/大人と子供の対位/希釈するもの/他者への想像力/ポスト・モダニティの岐路/生きることの勇気/失敗作はすばらしい/小説家と気概/新しい年の予兆/批評の爆発/距離の消失/幻想と現実/渾身の二作/野蛮と初心/ノイズと可視化/おだやかな反小説/非母語のひろがり/理想と衰勢/ウェブ世界と小説/川上未映子を推す/徒然草とポストモダン/空の高さ/生の一回性の感覚/「誰か」vs.「誰でも」

第二部 ポスト昭和期の二十年

大江と村上―一九八七年の分水嶺
「大江か村上か」から「大江と村上」へ/大江の近業/大江の村上批判/大江の「受動的な姿勢」―「奇妙な仕事」/村上の「能動的な姿勢」―「ニューヨーク炭鉱の悲劇」/終わりに

「プー」する小説―二〇〇四、「種ナシ」の文学
『シンセミア』の問い/「プー」する小説たち/「プー」しない小説/「種ナシ」の小説/「一」があること―『マグノリア』/『シンセミア』における「一」/もう一つの「プー」―『海辺のカフカ』/田宮と田村/「登場人物」から「出来事」へ

関係の原的負荷―二〇〇八、「親殺し」の文学
はじめに/沢木耕太郎の「覚醒」/『和解』vs.『無名』、『血の味』/関係の原的な負荷/『血の味』の問題点/『血の味』と『海辺のカフカ』/原的な負荷と「親殺し」/村上春樹の歩み/『寄生獣』の啓示/修復の道/『寄生獣』から『海辺のカフカ』へ/終わりに

あとがき
人名索引

第一部は、この20年の文芸時評。読んでいる俺としては「今更20年前の時評読まされても、ねぇ」っていう感じがした。時評ってのは、「その時」に読むから意味があるのであって。もしくは、かなり後になって「あのころ」を知るために読むもので。だから、この20年間のおおよその文芸の流れみたいなものがつかめていれば飛ばしてもいいかと。

第二部は、大きく二つの内容に分けられると読んだ。

まず、大江健三郎と村上春樹について。俺は大江健三郎も村上春樹も好きで、常々、両者の対立の構図を示されるたびに違和感というか、こいつら見当はずれなこと言ってるなあと思っていた。加藤典洋にしてもそれは同じだったようで、「大江か村上か」から「大江と村上」という構図を描いてくれた。よくやった、もっとやれ。ほとんどこれ目当てでこの本を買ったんだ。

二つ目は、著者のいうところの「関係の原的負荷」について。「関係の原的負荷」は、
P.321
一九一七年の『和解』に比べれば、父の子に対する愛情は、子にとって、環境問題が顕在化した後の空気や水のように、有償のもの、与えられたことの負い目を引き起こさずにはいないものへと、一変しているのである。
ここで言われる「負い目」のことである。本来、親が子に与える愛情は無償であるとされる。親にはその親(祖父母)がいて、そこで与えられたもの、負債を、自分が親になり子に与えることで相殺するからだ。子はその子を産み(孫)、さらにその負債を返す。しかしここで人間の類的存在性=存在の連鎖がとぎれたとき、つまり親が子を養育する「本能」(無償)を失ったとき、子に抑圧として見えない形で負荷が埋め込まれる。

親は、その親から無償で与えられたものをやはり無償で子に与えることで自分の負荷を相殺するのが本来。しかし、何かのきっかけ(これがよくわからん)で無償が有償になる。この有償の愛に応える(孫にではなく親に直接)べく、子は「いい子」であろうとする。で、この状態を親も子も認識していない。抑圧されているからだ。

こうなると、子はそれがうまくいかなくなったとき(たとえば試験で低い点数をとった、など)、親の中で居場所を失ってしまうことになる。家の中で、と言ってもいいかもしれない。子はそのとき、存在論的に殺される。子殺しである。

親殺し、親殺しと言われるが、そのほとんどの事例において、親殺しに先立って子殺しがなされていることに注意しなければならない。もちろんこの場合の「子殺し」は存在論的なもの、「親殺し」は本当の殺人である。でもそんなことはどうでもいい。「親殺し」でさえ、存在論的な殺人で可能だから。

わかりやすくまとめようと思ったら、なんだかどんどんわかりづらくなってきた。このあたりの話を読んで「親殺し」に興味を持ったら、ぜひこの本を読んでみるといいです。タイトルこそ「文学地図」で、しかも「大江と村上と二十年」ってことで、そっち方面にキャッチーなものになってるけど、この第二部は単なる文芸批評にとどまらないものになってます。

「親殺し」の物語で思いつくのは、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』とかカミュ『異邦人』とかオイディプスとかでしょうか。特にオイディプスはフロイト心理学、というか精神分析(もう古典なのか)でもとになってるから、そっちをかじった人なら知ってると思う。

これから加藤はそういった近現代の原型的な「親殺し」の文学にまで、この「関係の原的な負荷」の概念を及ぼすことはできないだろうかと考えているそうである。期待。



2009年1月13日

ヘッドホンが壊れた

もう何台目だろうか。

PC用のヘッドホンが壊れた。audio-technica(オーディオテクニカ)のオーバーヘッド。なんていうの、わきの支えるところ、アーム?ヘッドバンド?まあいいや、そこがバキっと折れた。前代もやっぱりオーテクで機種違いだったんだけど、耳当てのソフトレザーが摩耗して買い替えたんだよな。どっちもチープなやつだったから壊れても別段精神衛生に影響ないんだけど、次を用意するまで不便だ。Amazonで頼もうかなと思ってるけど届くまでiPod用のカナル型イヤホン(なぜかこちらはウン万円のそれなりに良いやつを買った)を抜き差ししなくちゃならん。面倒。家電量販店まで買いに行くなんて論外。

どうせなら耐久度の高いそれなりの値段するヘッドホンを買うか、所詮消耗品だと割り切ってチープなのをまた買うか。中間は存在しない。
「さっきも言ったように、私には中間というものが存在しないのよ。私の中には中間的なものは存在しないし、中間的なものが存在しないところには、中間もまた存在しないの。だからあなたは私を全部取るか、それとも私を取らないか、そのどちらかしかないの。それが基本的な原則なの」
(村上春樹『国境の南、太陽の西』(講談社文庫)の島本さんの印象的なセリフより)

大袈裟に言ってみました。まー、アンプとか経由させずにPCに直に挿して使うので、正直たいしてこだわってないんだ。数千円のチープなヘッドホンで今までやってきて、音質に関して特に不満がなかったので。たぶん、スタックスとか高級な部類のを一度でも使ってしまったら終わりだ。もう泥沼。際限なくこだわり始めると思う。そういうものだ。

あと、情報集めてたら、ヘッドセットっていうの?ヘッドホンとマイクが一体化してるやつ、そういうのが売れてるみたいで、売れてるだけあって価格も手頃なのが多かったんだけど、それはやめといた。第一に、ヘッドホン部分が密閉式ってのが少ない、っていうかほとんどないから。第二に、マイクが付いてたら確実にSkype廃人になるであろうことが容易に想像されるから。そういうものだ。

ってことで、結論。

今までどおりオーテクのローエンドを定期的に壊し続け、買い替え続ける。ヘッドホンってずっと使い続けてると不衛生な気もするし。ローテーションです。

スタスタローン

8 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。:2007/07/26(木) 04:00:43.20 ID:mLiQ3dDl0
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>>8
なんでスタスタローンが一番多いんだよw 

アヒルと鴨のコインロッカー

引っ越してきたアパートで出会ったのは、悪魔めいた印象の長身の青年。初対面だというのに、彼はいきなり「一緒に本屋を襲わないか」と持ちかけてきた。彼の標的は―たった一冊の広辞苑!?そんなおかしな話に乗る気などなかったのに、なぜか僕は決行の夜、モデルガンを手に書店の裏口に立ってしまったのだ!注目の気鋭が放つ清冽な傑作。第25回吉川英治文学新人賞受賞作。(Amazonより)


たった一冊の広辞苑を奪うために本屋を襲撃する、おかしな話、その時点でピンと来たね俺は。村上春樹の短編「パン屋襲撃」(『夢で会いましょう』(講談社文庫)収録)「パン屋再襲撃」が浮かんだ。しかもこの『アヒルと―』の著者・伊坂幸太郎は、いわゆる「春樹チルドレン」と呼ばれる作家の筆頭らしいのでなおさらだ。

読んでみると、なるほど、村上春樹にやられたちょっと成績のいい高校生が模倣したみたいな比喩表現があちらこちらに。読み始めてすぐ拒否反応が出そうになったけど、我慢して後半に突入すると、さきのようなイヤさはなくなり、むしろ読みやすい。各章末が2章1組で対になってるのも、まあ著者の遊び心なのかなと思えた。

表向きはミステリー、あるいは青春小説とも読めるかもしれない。本屋大賞をとった経緯からすると、やっぱりストーリー構成とかに重きを置いて「読みやすさ」を評価したのかもしれない。多くの読者が誤解している(「理解は誤解の総体」とも言われるが)。

しかし、これは単なるミステリーでも青春小説でもない。

タイトル『アヒルと鴨のコインロッカー』の「アヒル」と「鴨」は
P.186
よく似ている動物にも思えるけど、実際には、ぜんぜん違う。
これはブータン人と日本人のメタファー(隠喩)である。ブータン人留学生である(キンレィ・)ドルジは見た目は日本人とまったく区別がつかない。たどたどしい日本語を話したときにはじめて周囲の日本人は「あ、こいつガイジンだ」と気づく。まあその辺が話の肝なんだけど。

ブータンという国の特徴は日本と比べて、
  • 宗教(仏教)への信仰心が強く、生まれ変わり(輪廻)の思想などがある
  • 性に関してかなりオープンである
などが挙げられる。

この小説の主人公は椎名という大学生ということになっているが、この物語は椎名の物語ではない。
P.270
「河崎君と、ブータン人のドルジ、それからもう一人、女の子で、琴美ちゃんという子。彼ら三人には三人の物語があって、その終わりに君が巻き込まれた」
この「三人の物語」、つまり作中「二年前」と表記されているのが本筋で、それに付随するかたちで現在(二年後)が書かれている。カットバック形式をとっていること、そのカットバックがだんだん収斂していき最終的に全容が明らかになること、ミスリードを用いたちょっとしたどんでん返し、などからミステリーに分類されてしまっているのだと思うけど、そして「読みやすいミステリー」と受け取って満足してる読者が多いんだけど、これは非常にもったいない。

この小説における、素朴で敬虔な仏教徒、ブータン人留学生ドルジの二年間の変容を、そのまま「日本の近現代の変容」と読む、と言えばわかりやすいかもしれない。もっと深いテーマが浮かび上がるかもしれないよ。

単純に「ミステリー」として片付けてしまった方は、その辺をふまえて再読してみてください。



ここから余談なんだけど、「ドルジ」っていう名前が出たときに真っ先に朝青龍(本名:ドルゴルスレン・ダグワドルジ)が浮かんじゃって、作中では(おそらく)イケメンなのに、どうしてもあの顔しか想像できなかった。『アヒルと―』は映画化もされているので見ようかなと思っている。ただ、映画版では、原作のミスリードをどう使う(あるいは使わない)のか、すると配役はどうするのか(ちょっと調べたところ、「あの」二人は二人が演じるらしい)など、問題があるかと。問題っていうか、映画版はそれで一つの作品ですからって考えたらいいけど、原作読んじゃうとやっぱり比較しちゃうからねー。そしてたいていの映像化は(一部成功した例外を除いて)失敗するのが常だからねー。まあ、作中の大事な要素であるボブ・ディランを実際に聴きながら楽しめるところだけは評価できるのかな。。。



Amazonレビュー(DVDのほう)が絶賛の嵐でワロタw褒めすぎですからwww
そんなに良いのか((o(*^^*)o))

レビュー見てみたい、と思ったら↑の画像をクリックすれば見られますよ。

2009年1月8日

顔の右側

親知らず、が、ちょっとずつ、ちょっとずつ伸びてきて、はじめのうちは「あ、歯茎が盛り上がってきた、盛り上がってまいりました(・∀・)」って面白がってたんだけど、それが歯茎を突き破って頭角をあらわして、それでもまだ「違和感がある、でも、なんともない」って感じで年を越したわけですが、たぶん生えきっちゃえば「チョムゲティース」の一員になれるだろうと、新しい環境や仲間たちに馴染んでくれるだろうと思っていたんですが、ついに痛み始めました。

痛みには強い、で有名なチョムゲですが、2ちゃんねるでも有名ですが、VIPPERたちにカリスマと呼ばれていますが、アルファブロガーが絶賛していますが、「痛み」でググるとトップに名前が挙がりますが、そんな俺でも、看過できないかもしれません。

親知らずだけならイザ知らず、扁桃腺も調子に乗って腫れてきて、しかもそのどっちも右で勃発してるんだから。親知らずの痛みは上顎(頬骨の直下あたり)、扁桃腺の痛みは下顎(エラの直下あたり)で、プラス(どっちの影響なのか)顎関節まで、さわるとズキーン!って痛む。痛むし、熱もってるし。

そんなわけで口が開きません。いつもどおりご飯食べられません。スプーンがぎりぎり入るか、という程度で「それ以上開けちゃダメ!」っていう危険信号が脳を駆け巡る感じです。1.5cmがやっとって感じです。ここまで強情なのかと、開いた口が塞がりません、、、いや、その逆なんですけど。開かないんですけど。

そんなわけで、顔の右側がふくらんでしまい、はからずも今流行のアシンメトリーになっていますので、チョムゲをひっぱたきたい欲望に駆られたとしても、チョムゲがあっちこっちの女性に手を出していると知って頭にきた女性も、くれぐれも左の頬を打ってくださるよう、お願いします。右の頬は、そのあと差し出しますので。

(#´・ω・`)←いまこんな感じ

村上春樹の新作など

そろそろ出してくれないと困る。

ウワサでは「やたら長い」長編が書き終わったとか終わらないとか。新作のポイントは「恐怖」だとか。

それから、『ノルウェイの森』が映画化されるとかされないとか。2009年に撮って2010年に公開される予定だとかそうじゃないとか。

とにかく、なんでもいいからハルキをくれ!飢えてるというか禁断症状が!情報を小出しにされると、もう!

ノーベル文学賞もらえますかね。芥川賞のときみたいに、いつのまにか立ち消えになるんですかね。

それもこれも、次の長編にかかってると言って良い。これが良ければ、映画「ノルウェイの森」も大成功するだろうし、ノーベル賞もほぼ間違いない。とかそうじゃないとか。

2009年1月5日

神は妄想である――宗教との決別

'08年から引っ張ってきましたが、昨日読了しました。

目次

はじめに

第1章 すこぶる宗教的な不信心者
 相応の敬意/不相応な敬意

第2章 神がいるという仮説
 多神教/一神教/世俗主義・建国の父たち・アメリカの宗教/不可知論の貧しさ/NOMA/祈りの大実験/ネヴィル・チェンバレン学派の進化論者たち/リトル・グリーン・メン

第3章 神の存在を支持する論証
 トマス・アクィナスの「証明」/存在論的論証およびその他の先験的論証/美を根拠にした論証/個人的な「体験」をもとにした論証/聖書にもとづく論証/崇敬される宗教的科学者をもちだしての論証/パスカルの賭け/ベイズ流の論証

第4章 ほとんど確実に神が存在しない理由
 究極のボーイング747/意識を高める道具としての自然淘汰/還元不能な複雑さ/隙間(ギャップ)の崇拝/人間原理――惑星版/人間原理
――宇宙版/ケンブリッジでの幕間劇

第5章 宗教の起源
 ダーウィン主義の命ずるところ/宗教の直接的な利点/群淘汰/何かの副産物としての宗教/宗教への心理学的な準備が整う/そっと踏んで、あなたは私のミームを踏んでいるのだから/カーゴカルト(積荷信仰)

第6章 道徳の根源――なぜ私たちは善良なのか?
 私たちの道徳感覚はダーウィン主義的な起源をもつか?/道徳の根源についてのケーススタディ/神がいなければ、どうして善人でいられるのか?

第7章 「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神(ツアイトガイスト)」
 『旧約聖書』/『新約聖書』は少しでもましなのか?/汝の隣人を愛せよ/道徳に関する時代精神(ツアイトガイスト)/ヒトラーとスターリンについてはどうなのか? 彼らは無神論者ではなかったのか?

第8章 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?
 原理主義と科学の破壊/絶対主義の負の側面/信仰と同性愛/信仰と人間の命の尊厳/ベートーヴェンと中絶にまつわる大嘘/「穏健な」宗教がいかにして狂信を育むか

第9章 子供の虐待と、宗教からの逃走
 肉体的・精神的な虐待/子供を守る/ある教育スキャンダル/ふたたび、意識の高揚を/文学的教養の一部としての宗教教育

第10章 大いに必要とされる断絶(ギャップ)?
 ビンカー/慰め/インスピレーション(霊感)/巨大なブルカ

当ブログの2008年12月24日「いいわけがましくなるよ?」を書いた時点では全部読み終わってなかったのもあって、たいして言うことなかったんだけど、それは読了した現時点においてもあまり変わらないみたいだ。っていうのは、目次からわかるように、途中までは基礎というか前置きみたいな感じなので、後半に舌鋒鋭く宗教批判がくると思ってて、むしろそれが本書の中心だと思ってたから。まあ、それもあながち間違った予想ではなかったんだけど、これだけの量(600ページ弱)読まされたのに、得られたものがあまりなかったというか、俺がもともと持っていた宗教観と著しい相違がなかった。でも俺が特別進んだ考えを持っていたとかいうのとはちょっと違って、はっきり言うと「俺が日本人だから」ってことに尽きると思われる。考え方自体は強烈でもなんでもない。目から鱗っていうこともそんなに・・・。ただそういう「考え」を膨大な固有名詞と論文とで補強してくれた、それ以上の価値は(俺には)なかったんじゃないか、そう思いました。なのでこの記事は「宗教」というカテゴリを新たに作って入れるということはせずに、あくまでいつもどおり、「読書」カテゴリに入れます。

これは日本人以外の地球人が全員読めばいいんだと思う。で、無神論者が堂々と無神論者だと言えるようになればいいと思う。こないだ言ったことを繰り返すけど、信仰の仮面をかぶった教養ある無神論者は多いんだ。わりきってやってる人はいいけど、無神論者であることで苦しんでいる人もいて、そういう人々はまさにこういう本を待ってたんじゃないだろうか。こういう本がたくさんの著者によって書かれれば、理性を持っているがゆえの苦しみから解放される人は増えるはずだ。「せーの!」の声をたくさんの人があげればいい。知が血に勝つときがくるから。第7章にあるようにツアイトガイストってのがあるから、たぶん、ボーっと待っててもそのときはくるんだろうけど。っていうか、こういう本が世界でベストセラーになってること自体が、もう移り変わり始めていることの象徴であり証明だよな。

おまけ:
イスラムの出会い系サイト(顔写真意味ねぇwww)

イスラム女性(ムスリマ)はブルカを纏い、細長いスリットからしか外の世界を見ることができない。人間が可視光線以外を直接見ることができない、可聴領域以外の音波を直接聴くことができないように。でも人間は知によって(科学によって、でもいい)スリットの幅を広げた。

そのブルカを脱ぎ捨てる日がくることを願う。



2009年1月3日

Googleが謝ってきた

申し訳ありません

... コンピュータ ウィルスやスパイウェア アプリケーションの自動リクエストと類似したクエリが送信されました。 ユーザーを保護するため、このリクエストをすぐに処理することはできません。

できるだけ早くアクセスを復旧しますので、しばらくしてからもう一度お試しください。 お使いのコンピュータやネットワークがウィルスの被害にあっていると思われる場合は、ウィルス チェッカーやスパイウェア削除ツールを実行して、システムからウィルスや不正ソフトウェアを駆除してください。

引き続きこのエラーが表示される場合は、Google の Cookie を削除してから、Google に再度アクセスすると問題が解決する場合があります。 ブラウザ固有の手順については、お使いのブラウザのオンライン サポート センターにお問い合わせください。

ネットワーク全体が影響を受けている場合は、Google ウェブ検索ヘルプ センターで詳細をご覧ください。

ご不便をおかけいたしますが、ご理解、ご対応のほどよろしくお願い申し上げます。

いわゆる403エラー。ネットでたびたび出くわすエラーでは、「404 Not Found」がある。これは「そのファイルはここには(もう)ありませんよ」ってことだ。これくらいなら、チッ、と舌打ちで済む。でも「403 Forbidden」はたまにしか見ない。これは「あなたはこのファイルにアクセスする権利がありませんよ」ってことで、言い換えればアクセス禁止(=アク禁)されてるってことだ。

プライヴェートなページ/ファイルならともかく、Googleの検索結果のページで403が出るとはこれいかに?少なくとも俺は初めてGoogleから拒否されたよ。

しかも言うにことかいてウィルスやスパイウェアだと。セキュリティはちゃんとしてあるのに。だから俺の場合、こないだの「Google検索で候補が表示されない」で用いたリーサル・ウェポン、「Cookie削除」をやってみた。(ちなみにその記事がこのブログで最もアクセスの多い記事のひとつである。はからずも。)・・・でもやっぱり特定の単語で403エラーを吐いた。念のため別のブラウザでも試したけどやっぱり403。うーん、ってことはウィルスかスパイウェア入っちゃったのかな・・・((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル・・・ってことで、長いお付き合いのLavasoft Ad-Awareに久しぶりに手を借りてスキャンしてみた。スキャンしてる間に風呂に入った。案の定、スパイウェアらしきファイルがいくつか見つかった。もちろんすべて削除した。でも、でも特定の単語で403吐かれた。

しょうがねぇなーっつってエラーページの単語で検索してみたら、それらしい事例がいくつか。珍しいことは珍しいんだけど、一部ではけっこう前から発生していたらしい。

で、解決策ですけど、Cookieやウィルスなどがシロの場合、Googleが拒否してる以上、原則お手上げです。でも抜け道は用意されています。それは画像認証。実際Googleに謝られたらわかりますが、ページ下部に画像とテキスト入力ボックスがあり、画像に書かれた文字列を入力してやれば検索を続けることができます。というかこれしかありません、今のところ。

ここから余談ですが、今回俺がこの件に出くわした「特定の単語」ですけど、それは「LHC」です。それも、Web検索ではなくブログ検索。「LHC」は、調べてもらえばお分かりになるでしょうが、「大型ハドロン衝突型加速器(Large Hadron Collider)」の略称です。まあいろいろと思うところあってLHCについて書かれたブログを読みたいと思った矢先にGoogle先生に「やめとけ」って諭された、そんな感じでしょうか。それだけ危険だってことでしょうかね、安全安全って言ってますけど。なんかハッカーに侵入されたとかいう記事も見かけたし。2008年9月の初の実験がたしか電気系統かなんかの不備で延期になってるようでもあるし。2009年春に再開するとかなんとかいうてはりますけど。まあすくなくともそれまでは人類あるいは地球の寿命が延びた、いうこってすな。

#追補
すいません、今確認したところ、ブログ検索そのものが認証しないと使えないと判明。LHCうんぬんじゃなくw。それと、他の情報によると、GoogleがIPによって弾いている可能性もあるらしい。あるいは「検索しすぎ」でGoogleに疑われて弾かれてるか。

いずれにせよ、こうなった以上、解決策は画像認証しかありません、今のところ。不便だけど。

#さらに追補
すいません、今確認したところ、403エラー吐かなくなってました。ブログ検索はおろかLHCすらちゃんと表示されました。

いずれにせよ、こうなったら、画像認証してGoogle先生に「俺だよ!ウィルスじゃないよ!俺だよ!あんちゃんだよ!」とアピールするほかないみたいです。

2009年1月2日

iPodの選び方

まず結論を。
iTunes(無料)をDL&インストールし、手持ちのCDを全部PCに入れてみて、容量で選ぶ。
前提として、

・最新とは言わないまでも、ある程度高性能のPC(あるいはMac)を持っている。
iPodを使うには、原則としてiTunesが使える環境が必要。iTunesを使うには、原則として(Windowsの場合)XPまたはVista環境が必要なので。それらのOSが動くPCであれば必然的にある程度高性能と言えるから。また、これからiPodを使いたいと思っている方はおそらくPC初心者であるから。Win95、98、ME、2000などを使っている方はすでにそれなりに知識があるだろうから、そもそもこれを読まずとも自力でなんとかできる域のスキルがあるとみなす。PC初心者ということは、最新のVista、あるいはさかのぼってもXPを使っている方が大半だろうから。(OSうんぬんより、初心者のほうが性能のいいPCを持っているというのはなんだか逆説めいていておもしろいような気もするが事実)
・価格はできれば安いほうがいい。
これは当たり前。ユーザー側はもちろんだけど、メーカー(アップル)だって安く提供する努力をしている。モデルチェンジで価格が変わらなくても、同じ価格で容量がアップしていたりする。
とします。
「iPod 選び方」などで検索すると、一覧表みたいなのがバーっと出てきて、一見分かりやすいようでも実は混乱するだけ、っていうのが多い。(または情報が古い。←iPodはほとんど毎年新モデルが出るから。←大体9月、それも上旬に発表と同時に発売。←基本的に「欲しい時が買い時」だけど、7月を過ぎていたら、新製品待ちをしてもいいかもしれない。)
初心者は、性能を数字とアルファベットだけ(たとえば「16GB」とか)で判断しかねる。だから一覧表で比較されても( ゚д゚)ポカーン。結局、価格で選んでしまい(それ重視ならもう選択の余地がない)、あとで後悔する。買いなおしたりとか。←価格で選んだ結果、より高額な出費になってしまっている。「授業料」にしては高すぎる。(このブログは無料で閲覧できるので(・∀・)イイ!!)
つまり、「価格で選ぶのは間違い、むしろ高くつくこともある」。(お年玉もらったティーンエイジャーが大枚はたいてその結果涙目・・・とかかわいそうだ(><))
だから、普遍的な選択基準が必要だ。モデルチェンジとかで古くなるようなあいまいな基準でなく。それで、冒頭の結論が導かれる。持っている音楽をデータにして換算して、その容量を基準にすればよい。
容量で選ぶiPod(iPhone/iPod touchはもう別次元なので外しておきます)
・iPod shuffle(1GB/2GB)
・iPod nano(8GB/16GB)
・iPod classic(120GB)
ちなみに、各機種の特徴
・iPod shuffle→○小さい、軽い(→×画面無し)
・iPod nano→○そこそこ小さい、そこそこ軽い、カラーバリエーション豊富でおしゃれ泥棒
・iPod classic→○他機種と比較にならないほど大容量
それぞれのユーザーあるある
・iPod shuffle→基本的にサブ機として使う人が多い。
・iPod nano→音楽に目覚め始めたばかりでそんなにCDがあるわけでないティーンエイジャー、あるいはカラバリ・ファッション性重視のおしゃれ泥棒。
・iPod classic→「すべてのコレクションをポケットに」のコピーどおり、iTunesまるまる持ち運ぶならこれ一択。選択の余地なし。特に動画を入れたいと考えている場合、同様に動画再生機能のあるnanoでは容量が足りず、毎回取捨選択が必要。
それから、これからiPod購入を考えている方へ。
いろんなお店でチェックしてみるとわかりますが、iPodは基本「安売りされない」商品です。これだけ売れてるのに、ほとんどどこに行っても定価近くで売ってます。つまり、どこで買っても(同機種なら)同じ値段ってこと。(家電量販店、通販、アップル公式サイト、など)
「えーっ、じゃあどこで買えばいいの?同じなんでしょ?」
ちょっと待て。それは違う。たとえばAmazonだと、今のシーズン(2009/01/02現在)は高め。おそらく「お年玉しぼりとれ作戦」が展開されてるから。むしろアップル公式サイトで定価で買ったほうがお得になってる。「欲しい時が買い時」という鉄則にのっとって考えると、「どこで買うか」はいつも同じ答えを出すことができない。その日その時で価格は推移するから。(「価格で選ぶのは間違い」という考えはここでも正しい力を持つ。)
自分が求めるiPodはどれか/どこで購入すべきか
ここまで読んでもまだ判断がつかない方のために一番無難な選択を提示してシメます。
これなら異論が出ないはず。異論がある、という人はそもそも自分で選べる人間だと思われるから・・・ね。

2009年1月1日

究極の選択

問い:
お前等の好きな女の子が事故で脊椎損傷して
首から下全く動かなくなって何日も悩んだ末に泣きながら殺してくれと頼まれたら
お前等うどんと蕎麦どっちが好き?

模範解答:
「俺がずっとそばにいる、もうどんなことがあっても離さない。」

こないだの「食パンマンは何枚切り?」同様、ちゃんとした答えになってないんだけど、これ以上上手な解答もまたないんじゃないかと思うのです。どっちの質問も、質問者は(たぶん)自分でもくだらねぇなぁと思って、ウケ狙いでやったことだと思われるんだけど、それに乗っかってふざけるやつとか、真面目に論考するやつとかがいて、最終的に鶴の一声みたいに「上手い」解答がポンと出て、誰も文句つけられないっていう。もちろんさっき言ったように、上のどちらの解答も質問の答えとしては間違ってるんだけどね。「何枚切り?」→「何枚切りだろうが、~」、「どっちが好き?」→もはやその質問には答えてない、っていうふうに。テストならバツくらうよ。だけど必ずしも答えはそこにあるとは限らない。だから、「究極の選択」だからといってどちらか一方だけ正解じゃないわけです。両方正解ってこともあるし、どっちも選ばないことが正解だったり。

謹賀新年

あけましておめでとうございます\(^o^)/

いやーめでたい。なにがめでたいって、大晦日に扁桃腺腫らしてその痛みと頭痛プラス金箔入り日本酒による酩酊でフラッフラになって気づいたら歳が明けてたっていう。朝、起きてから年越しそばいただいたっていう。まあ、そんなこんなで今年もよろしくお願いします。

今年の抱負としましては、「ブログ200本書く」を目標に日々精進したいと思います。そのためにはたくさん本を読んだり映画を観たり音楽を聴いたりすることが必要になってきますが、そういったものすべてが、俺の滋養になり、ひいてはこのブログの読者(つっても今のところ30人/日くらいですけど)の皆々様方のひまつぶしになるのではないかと思っています。

っつうことで、

 2 0 0 9 年 は じ ま っ た な

あなたにとってよい年になりますように。

平成二十一年 元旦
チョムゲ