というのは、リチャード・ドーキンスの『神は妄想である―宗教との決別』にこうあったのが印象的だったからだ。
子供は、キリスト教徒の子供でもイスラム教徒の子供でもなく、キリスト教徒の親を持つ子供、イスラム教徒の親を持つ子供にすぎないのだ。
これは子供の虐待についての文脈で書かれていた文章だ。つまり分別のつかない子供に「キリスト教徒の子供」だとか「イスラム教徒の子供」だとかのレッテルを貼ることは虐待なんだということだ。
だから、「証人会」の親の元に生まれて、その信仰を(自分の意思と逆に)押し付けられていた青豆が、まさにこれじゃん、と思った。
でも読み進めてみたら、「生まれながらの被害者」は青豆の友人の環のことだった。主に。
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