2009年1月17日

文学地図 大江と村上と二十年

大学にいた頃、村上春樹関連の批評を集める際に、加藤典洋のいわゆる「解説本」みたいなものを買った。この人はハルキマニアなんだなあと思っていた。

ここにきて(2008年12月25日)、『文学地図 大江と村上と二十年 (朝日選書)』が彼の手によって成った。

目次
はじめに

第一部 文芸時評の二十年

バブル期の文学―一九八九~一九九〇年
病原体と生きる/小説家の困難/家族の未知の表情/いくつかの秀作/無為と平凡/紙一重の差/驚くべき短編/悪の不敵な力/否定の明白さの必要/小説の「大きさ」/小説の「新しさ」/ただの初心者の輝き

湾岸戦争後期の思想と文学―一九九三~一九九五年
言葉としての憲法/安部公房的な問題/ポスト・モダニズム的な反動/二つの通俗性/没後一年の中上健次/佶屈と充実/ワークとビジネス/フェミニズムの自己更新/現実とシミュレーション/吉本ばななの虚構/異界の感覚の消失/不倫小説の深度/アジアと西欧の混淆/誰が読むか/福田恆存の死/ビートたけしの戦い

ゼロ年代の小説と批評―二〇〇六年~二〇〇八年
翻訳という批評/大人と子供の対位/希釈するもの/他者への想像力/ポスト・モダニティの岐路/生きることの勇気/失敗作はすばらしい/小説家と気概/新しい年の予兆/批評の爆発/距離の消失/幻想と現実/渾身の二作/野蛮と初心/ノイズと可視化/おだやかな反小説/非母語のひろがり/理想と衰勢/ウェブ世界と小説/川上未映子を推す/徒然草とポストモダン/空の高さ/生の一回性の感覚/「誰か」vs.「誰でも」

第二部 ポスト昭和期の二十年

大江と村上―一九八七年の分水嶺
「大江か村上か」から「大江と村上」へ/大江の近業/大江の村上批判/大江の「受動的な姿勢」―「奇妙な仕事」/村上の「能動的な姿勢」―「ニューヨーク炭鉱の悲劇」/終わりに

「プー」する小説―二〇〇四、「種ナシ」の文学
『シンセミア』の問い/「プー」する小説たち/「プー」しない小説/「種ナシ」の小説/「一」があること―『マグノリア』/『シンセミア』における「一」/もう一つの「プー」―『海辺のカフカ』/田宮と田村/「登場人物」から「出来事」へ

関係の原的負荷―二〇〇八、「親殺し」の文学
はじめに/沢木耕太郎の「覚醒」/『和解』vs.『無名』、『血の味』/関係の原的な負荷/『血の味』の問題点/『血の味』と『海辺のカフカ』/原的な負荷と「親殺し」/村上春樹の歩み/『寄生獣』の啓示/修復の道/『寄生獣』から『海辺のカフカ』へ/終わりに

あとがき
人名索引

第一部は、この20年の文芸時評。読んでいる俺としては「今更20年前の時評読まされても、ねぇ」っていう感じがした。時評ってのは、「その時」に読むから意味があるのであって。もしくは、かなり後になって「あのころ」を知るために読むもので。だから、この20年間のおおよその文芸の流れみたいなものがつかめていれば飛ばしてもいいかと。

第二部は、大きく二つの内容に分けられると読んだ。

まず、大江健三郎と村上春樹について。俺は大江健三郎も村上春樹も好きで、常々、両者の対立の構図を示されるたびに違和感というか、こいつら見当はずれなこと言ってるなあと思っていた。加藤典洋にしてもそれは同じだったようで、「大江か村上か」から「大江と村上」という構図を描いてくれた。よくやった、もっとやれ。ほとんどこれ目当てでこの本を買ったんだ。

二つ目は、著者のいうところの「関係の原的負荷」について。「関係の原的負荷」は、
P.321
一九一七年の『和解』に比べれば、父の子に対する愛情は、子にとって、環境問題が顕在化した後の空気や水のように、有償のもの、与えられたことの負い目を引き起こさずにはいないものへと、一変しているのである。
ここで言われる「負い目」のことである。本来、親が子に与える愛情は無償であるとされる。親にはその親(祖父母)がいて、そこで与えられたもの、負債を、自分が親になり子に与えることで相殺するからだ。子はその子を産み(孫)、さらにその負債を返す。しかしここで人間の類的存在性=存在の連鎖がとぎれたとき、つまり親が子を養育する「本能」(無償)を失ったとき、子に抑圧として見えない形で負荷が埋め込まれる。

親は、その親から無償で与えられたものをやはり無償で子に与えることで自分の負荷を相殺するのが本来。しかし、何かのきっかけ(これがよくわからん)で無償が有償になる。この有償の愛に応える(孫にではなく親に直接)べく、子は「いい子」であろうとする。で、この状態を親も子も認識していない。抑圧されているからだ。

こうなると、子はそれがうまくいかなくなったとき(たとえば試験で低い点数をとった、など)、親の中で居場所を失ってしまうことになる。家の中で、と言ってもいいかもしれない。子はそのとき、存在論的に殺される。子殺しである。

親殺し、親殺しと言われるが、そのほとんどの事例において、親殺しに先立って子殺しがなされていることに注意しなければならない。もちろんこの場合の「子殺し」は存在論的なもの、「親殺し」は本当の殺人である。でもそんなことはどうでもいい。「親殺し」でさえ、存在論的な殺人で可能だから。

わかりやすくまとめようと思ったら、なんだかどんどんわかりづらくなってきた。このあたりの話を読んで「親殺し」に興味を持ったら、ぜひこの本を読んでみるといいです。タイトルこそ「文学地図」で、しかも「大江と村上と二十年」ってことで、そっち方面にキャッチーなものになってるけど、この第二部は単なる文芸批評にとどまらないものになってます。

「親殺し」の物語で思いつくのは、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』とかカミュ『異邦人』とかオイディプスとかでしょうか。特にオイディプスはフロイト心理学、というか精神分析(もう古典なのか)でもとになってるから、そっちをかじった人なら知ってると思う。

これから加藤はそういった近現代の原型的な「親殺し」の文学にまで、この「関係の原的な負荷」の概念を及ぼすことはできないだろうかと考えているそうである。期待。



0 件のコメント: