2009年6月7日

1Q84: 目的

Book 1, P.267
人々の抱く個別的なイメージを相対化し、そこに人間にとって普遍的な共通項を見いだし、もう一度それを個人にフィードバックすること
これは戎野先生が自分の文化人類学者の精神を天吾に話すところで出てくるセリフの一部なんだけど、これが読書の醍醐味だとも言えると思った。ひいては芸術に分類されるすべてのことに言える。大江健三郎『個人的な体験』のテーマにも、一つにはそういうことも含まれるんだと思っている。

漠然と、だけど、抽象的な/にものごとを考えられない人がかなり多いか多くなった気がする。エピソードの細部にとらわれ過ぎて、(不)整合性とか(無)矛盾とかがないか目を皿にしてるというか。ま、それはそれでいいんだけど、月9のドラマじゃないんだからさ。

あんまり理系とか文系とかっていう風に人間を分類するのは好きじゃないけど、あえて言えば、理系の脳の使い方というか思考法で小説を読んでもしょうがないと思う。数学の神童と言われて育って教える側にまでいった天吾が、作家になろうとしていることはかなり象徴的だ。美しい数学の世界へ逃避できていたのに、やはりそれだけじゃ救われないと悟ったんじゃなかろうか。

だから、ひょっとしたら忙しい人には向かないのかもしれない。特に「字義通りをそのまま実生活で役立てられないような本は価値が無い」というような人には。普段から何かのマニュアルだとか実用書だとか参考書だとかしか読まない人にとっては、ある小説は時間のムダにしかならない。

その視座で言えば、表面も奥も兼ね備えた小説を書ける文豪はやっぱり文豪なんだな、としみじみ思うわ。表層のストーリーだけ追っていっても十分おもしろくて、ぐっ、と読み込むとさらにおもしろい、そういう小説。めったにお目にかかれないけど。

ここから余談だけど、
戎野先生ってイメージ的に大江健三郎っぽいね。黒縁めがねとか。

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