例えば『平家物語』のくだり。これはチョムゲブログ: ディスレクシア、口承文学で書いた考え方、というか立場をとろうとしたら、(英語なら英語に)翻訳するときに、意味の通じる(通じやすい)英語にしちゃったらあかんな、とか。じゃあそこは古英語にすればいいのかっていうと違う気もするし。
『マタイ受難曲』しかり。
そのへんは、翻訳者と村上氏とであっといわせる案が出されるんだろうか。
俺が心配してもしょうがないんだけど。
(略)結果的に多くの読者を戸惑わせることになった。それは文学的な要素を極端に抑制した、むしろ実務的な調査報告書や地誌に近いものだったからだ。「どうしてチェーホフは作家としての大事な時期に、あんな無駄な、意味のないことをしたのだろう」とまわりの人々は囁き合った。批評家の中には「社会性を狙ったただの売名行為」と決めつけるものもいた。(略)
頭のいい十代の少女は時として本能的に演技をする。
ときおり聞き慣れない甲高い鳥の声が聞こえた。しかしその鳥の姿を目にすることはできない。
世界の終わり?
彼らは神のことを「お方さま」と呼んだ。
「ねえ、今ちょっと炒め物をしているんだ」と青豆は言った。「手がはなせないの。あと三十分くらいしてから、もう一度電話をかけなおしてもらえるかな」
「めくらのヤギからでてきた」
「(略)それが私のやり方です。やすやすと殺したりはしません。死なない程度に間断なく、慈悲なく苦しめ続けます。生皮を剝ぐようにです。(略)」
牛河は背の低い、四十代半ばとおぼしき男だった。
ネズミを取り出す
寡黙な一人ぼっちの衛星
さなぎの中にいるのが少女自身であることを、少女は発見する。
物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない
「天吾君」と青豆は言った。そして引き金にあてた指に力を入れた。
「(略)もし小説が話題になったら、マスコミが集まってきて、いろんなおいしい事実を暴き立てるでしょう。大変なことになりますよ」(※太字は原文では傍点)
子供は、キリスト教徒の子供でもイスラム教徒の子供でもなく、キリスト教徒の親を持つ子供、イスラム教徒の親を持つ子供にすぎないのだ。
人々の抱く個別的なイメージを相対化し、そこに人間にとって普遍的な共通項を見いだし、もう一度それを個人にフィードバックすること
きわめてありそうにないことだが、まったくないとは断言できない。
多くの人々は日曜日の朝を休息の象徴として考える。
「この世の中には、代わりの見つからない人というのはまずいません。」
「あなたみたいな人の代わりはちょっと見つからないだろうけど」チョムゲブログ: 浅倉南の憂鬱、あるいは同一性、スワンプマンで俺が言いたかったことのひとつは、そういうことなんだよね。
それから男はふと思いついたように、カティサークはあるだろうかと尋ねた。ある、とバーテンダーは言った。悪くない、と青豆は思う。選ぶのがシーバス・リーガルや凝ったシングル・モルトでないところに好感が持てる。バーで必要以上に酒の種類にこだわる人間は、だいたいにおいて性的に淡白だというのが青豆の個人的見解だった。その理由はよくわからない。
ためしにシーヴァス・リーガルはあるだろうかと訊くと、シーヴァスはちゃんとあった。
(略)そんなひどいことになるとは、当時まだ誰ひとりとして知らない。歴史が人に示してくれる最も重要な命題は「当時、先のことは誰にもわかりませんでした」ということかもしれない。
「どこかに必ず最後はあるものだよ。『ここが最後です』っていちいち書かれてないだけだ。ハシゴのいちばん上の段に『ここが最後の段です。これより上には足を載っけないで下さい』って書いてあるか?」
全部で二十四曲。第一巻と第二巻をあわせて四十八巻。完全なサイクルがそこに形成される。