2009年6月11日

1Q84: 翻訳されるとしたらあれはどうなる?

『1Q84』は、まーほとんど100パー、翻訳されるだろうと思うんだけれど、「ここはどうするんだろう?」と素朴な疑問を抱いたところがいくつかあった。

例えば『平家物語』のくだり。これはチョムゲブログ: ディスレクシア、口承文学で書いた考え方、というか立場をとろうとしたら、(英語なら英語に)翻訳するときに、意味の通じる(通じやすい)英語にしちゃったらあかんな、とか。じゃあそこは古英語にすればいいのかっていうと違う気もするし。

『マタイ受難曲』しかり。

そのへんは、翻訳者と村上氏とであっといわせる案が出されるんだろうか。

俺が心配してもしょうがないんだけど。

1Q84: チェーホフ『サハリン島』―『アンダーグラウンド』

Book 1, P.460に出てくるアントン・チェーホフ『サハリン島』について。チョムゲブログ: 東京するめクラブのときにはスルーしたんだけれど、『1Q84』でサハリンががっちり出てきたので。

東京するめクラブ』で村上氏がサハリンに行ったときに『1Q84』の構想みたいなものがあったかどうかはわからない。まあぶっちゃけどっちでもいいんだけど。作中の「チェーホフ観」を読んだら、これは『アンダーグラウンド』と、それに続く『約束された場所で―underground 2』を著した村上氏自身のことみたいだと思った。

P.461

(略)結果的に多くの読者を戸惑わせることになった。それは文学的な要素を極端に抑制した、むしろ実務的な調査報告書や地誌に近いものだったからだ。「どうしてチェーホフは作家としての大事な時期に、あんな無駄な、意味のないことをしたのだろう」とまわりの人々は囁き合った。批評家の中には「社会性を狙ったただの売名行為」と決めつけるものもいた。(略)

このチェーホフが、どうしてもあの頃の村上春樹その人とダブる。次ページ(P.462)後半のセリフなども同様に。

1Q84: 旧作の顔ぶれ

そろそろ『1Q84』で引っ張るのに区切りを付けたいので、全体を通して見かけたハルキオールスターズ(人物以外も含む)をちょこっと書きます。まんまだったり、強引だったり、チョムゲの主観がかなり入っていることは了承した上で聞いてください。

Book 1, P.97
頭のいい十代の少女は時として本能的に演技をする。
→『ノルウェイの森』レイコのピアノの教え子

Book 1, P.209
ときおり聞き慣れない甲高い鳥の声が聞こえた。しかしその鳥の姿を目にすることはできない。
→『ねじまき鳥クロニクル』ねじまき鳥

Book 1, P.233
世界の終わり?

Book 1, P.271
彼らは神のことを「お方さま」と呼んだ。
→「神の子どもたちはみな踊る」(『神の子どもたちはみな踊る』所収)お方さま

Book 1, P.332
「ねえ、今ちょっと炒め物をしているんだ」と青豆は言った。「手がはなせないの。あと三十分くらいしてから、もう一度電話をかけなおしてもらえるかな」
→『ねじまき鳥クロニクル』スパゲティを茹でているときにかかってくる電話

Book 1, P.366
「めくらのヤギからでてきた」
→「めくらやなぎと眠る女」/「めくらやなぎと、眠る女」タイトル

Book 1, P.391
「(略)それが私のやり方です。やすやすと殺したりはしません。死なない程度に間断なく、慈悲なく苦しめ続けます。生皮を剝ぐようにです。(略)」
→『ねじまき鳥クロニクル』皮剝ぎボリス

Book 2, P.40
牛河は背の低い、四十代半ばとおぼしき男だった。

Book 2, P358, 第17章章題
ネズミを取り出す
→初期3(4)部作 鼠

Book 2, P.379, 第18章章題
寡黙な一人ぼっちの衛星
→『スプートニクの恋人』タイトル

Book 2, P.411
さなぎの中にいるのが少女自身であることを、少女は発見する。
→『スプートニクの恋人』ミュウ(ドッペルゲンガー)

1Q84: 耳と女性性器

Book 2, P.301で、耳と女性性器はとてもよく似ているって書いてあって、なんで俺はこれまでそんなことに思い至らなかったんだろうって思った。

思えば初期3(4)部作のうちから、主人公たちは「耳」についてかなりこだわっていた。耳専門のモデルとか耳のポスターとかさ。俺としては、「耳、ねぇ・・・」という感じで、まさか女性器が耳のメタファーのバリエーションのうちに入っているとは思わなかった。これは致命的な落ち度だったかもしれない。直接村上氏の作中で「似ている」って書かれるまでわからないなんて。

鼻だったら、例えば鼻の大きい男の人はペニスが大きいとかって俗説はそこらじゅうで聞くので、結びつけるのに苦労しなかった。でも耳のかたちと女性器かー。なるほどー。

ここから余談ですが、
歌の歌詞に君の耳と鼻の形が愛おしい、っていうのがあって、それ思い出して余計「なるほ度」が深まりました。

1Q84: 説明されなくてはわからない

Book 2, P.184の第2パラグラフに、ホテルの部屋の描写があるのですが、これがどうもうまくイメージできません。

机、電気時計、反対側の壁際のベッド、そのベッドの枕元に電気時計。ん?

単に読解力の不足なんでしょうか。もしこの部屋のイメージがつかめた方がチョムゲに教えてあげる気があれば、右のメールアドレスにレイアウトを簡単にペイントかなんかで書いて送ってください。お礼は一切いたしません。よろしくお願いいたします。

それともあれか、説明されなきゃわからないようであれば説明されてもわからないっていう、それなのか?

1Q84: 田村看護婦

Book 2, P.168で登場する、千倉の療養所の看護婦ですが、名札に「田村」ってあります。

なんでわざわざ「田村」と名づけたんだ、としばし考えちゃった。というのは、少し前の氏の長編『海辺のカフカ』の主人公カフカ君と同じ名字だから、っていうのが一つ。それと今回の登場人物タマルのことがもう一つ。

田村とタマルって、似てるようで違うようで、でも似てる。どういうことかというと、「田+マル」と書いて鏡に映すなり裏返すなりして縦横の向きをいじると、田ムラと田マルがぴったり重なるということです。なんか説明しようとすると強引に聞こえるかもですが、やってみたらアッー!ですよ。

『海辺のカフカ』のときは、カフカ君のお母さんはとうとう出ずじまいだった。佐伯さんを仮想母として(代替です)物語は閉じるんですが。だから今回の田村看護婦とカフカ君のお母さんが云々・・・。ちょっと安直すぎるか。

でもそういうふうに受けとれなくもない名字をあえて付けちゃうところ、これはもう少し考える甲斐がありそう。

#追記
Book 2, P.447で天吾が田村看護婦に二度目に会うシーンに、「名前は思い出せない」とある。これって、ほんとうに名前がどうでもいいならわざわざ書かないことだと思う。もしくは憶えていることになると思う。「名前は思い出せない」って書いてあれば、読者はどうしてもページを少し戻して彼女の名前を確認しちゃう。

1Q84: 千倉

Book 2, P.161で、どこに行くというあてもなく電車に乗った天吾が、突然、自分が何をしようとしていたのかに思い当たるシーンがある。そしてそれは南房総の千倉という海辺の町へ父親を訪ねることだった。

俺はほんとうにビクリツしてしまって。

このブログのそもそもの書き始めというか立ち上げのきっかけとなったのが、圭子と二人で千倉へ行った旅行記だったからだ。(顔写真など、載せっぱなしではまずかろう諸事情から、その記事はまるごと削除しちゃったんだけど、ハナからここを読んでくれている方々は絶対わかってる。)

だから、すぐ圭子にメールで聞いちゃった。旅行先の話で「千倉」を先に持ち出したのは俺だった? 圭子だった?

圭子だった。

あらまー、どうしたことだろう。なんという偶然。南房総で館山とかじゃなくなぜあえて千倉行っちゃったんだろう俺たち?

すごく良いところだったよ。オーシャンビューの部屋でさ、歩いてちょうどいい距離にちょうどいい飲み屋があってさ、酔っ払って二人で寝転んで夜空見上げたら星がボトボト落っこちてきそうでさ。圭子なんか何を思ったかケータイで写メとろうとして、あれ、写らないとか言って、写るわけねーじゃんwwwって俺が言ってさ、心のフィルムに焼き付けてどうのこうのとかなっちゃってさ。まあ、セックスして寝たんだけどさ。

話が逸れたね。戻す。

あえて村上春樹と千倉を結びつけるとすれば、そこに安西水丸画伯を立てればなんとか説明できる。村上氏のエッセイなどでたびたびお目にかかるイラストレーターだ。彼の出身がたしか千倉だとどこかで読んだ記憶がある。今のところその線が一番有力らしく思えるし、それ以外にちょっと思い当たらないんです。困ったことに。

1Q84: タマルはときどき大事(そう)なことを言う

Book 2, P.72, L.1とかP.73, L.1とか。全部挙げてたらきりがないんだけど。

1Q84: 青豆は死んだのか

Book 2, P.33にチェーホフの言葉が出てくる。
物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない
これに関しては俺は以前どこかで読んだことがあって(十中八九村上氏だと思う)、それからはもう「お約束」みたいに捉えてた。

それは、ダチョウの竜ちゃんが熱湯風呂の上で「おまえら押すなよ!絶対押すなよ!」と言ったらまわりの芸人は突き落とさなくてはならないっていう、そういう感覚に似てる。ただ、新しいスタイルでは、あえてそこで押さずに放っておいて竜ちゃんが「押さないのかよ!」というのもある。これは最初の「お約束」を、芸人たちはもちろん、視聴者もわかっていてこそのものなの。

そうなると、Book 2のはじめの方であえてチェーホフを引用してくることの意味とはこれいかに? 作中で「お約束」を説明しちゃってるんだから、それは裏切られなくてはならないってことだろうか。この場合、青豆の手にした拳銃が火を噴くか否か、ってことだ。

すんなり「お約束」が守られるとすれば、青豆は発砲するだろう。あえて新しい方をとるなら、青豆はトリガーを引かない。

で、Book 2, P.474まで飛びますと、青豆の最終章のラスト1行はこうなっている。
「天吾君」と青豆は言った。そして引き金にあてた指に力を入れた。
微妙な、絶妙な物言いだ。どっちにもとれる。もちろん、ヘックラー&コッホを口に突っ込んで引き金にあてた指に力をいれれば、脳味噌はぶちまけられちゃう可能性は限りなく高い。なので、単純に「青豆は天吾のために死んだ、おしまい」って理解しちゃってもそれはそれでいい。でもやっぱり(読まれた方はほとんどだと思うけど)青豆には幸せになって欲しいやん、どうしたって。

これには続編の可能性の議論(http://chomge.blogspot.com/2009/06/1q84.html)とかも絡んでくるからほんとうに選択肢がひろがりんぐなんだよね。2冊完結だとしても微妙なところなんだから。大ラスで天吾が青豆をみつけようと決心するところも、「彼女がたとえ誰であろうと」ってとこまで言っちゃってるから、いや、青豆は青豆やん、って思わされたり、つくづくだよ。

ってことで、考え中。

See also:

2009年6月7日

1Q84: 「おいしい」

Book 1, P.305
「(略)もし小説が話題になったら、マスコミが集まってきて、いろんなおいしい事実を暴き立てるでしょう。大変なことになりますよ」
(※太字は原文では傍点)
ここで「おいしい」っていう言葉が使われていて、ちょっと気になった。「おいしい」っていう言葉は当時使われていたか?って。

もちろん、食べ物の味を伝える表現としての「おいしい」はずっとずっと昔からあった。でもここで使われている「おいしい」は「事実」という名詞にかかっている。料理じゃなく。この「おいしい」はさ、俺の記憶が確かならば、糸井重里がコピーとして創って、当時流行した言葉だ。「おいしい生活。」って。

というわけでネットで調べると、どうも1982年ごろにできたようだ。ということは、1984(1Q84)年に「おいしい事実」と言う言葉が会話に出てきてもおかしくはない。まあ、お話の中なのでどっちでもいいっちゃどっちでもいいんだけど。

ここから余談だけど、
糸井重里と村上春樹が共著で出した本があるよ。
夢で会いましょう』というショート・ショート集です。参考までに。

#ここまでBook 1をメインに書いてみました。

1Q84: 生まれながらの被害者

Book 1の第13章のタイトル「生まれながらの被害者」は、目にしてすぐ、これは青豆さんのことだろうな、と思った。

というのは、リチャード・ドーキンスの『神は妄想である―宗教との決別』にこうあったのが印象的だったからだ。
子供は、キリスト教徒の子供でもイスラム教徒の子供でもなく、キリスト教徒の親を持つ子供、イスラム教徒の親を持つ子供にすぎないのだ。
これは子供の虐待についての文脈で書かれていた文章だ。つまり分別のつかない子供に「キリスト教徒の子供」だとか「イスラム教徒の子供」だとかのレッテルを貼ることは虐待なんだということだ。

だから、「証人会」の親の元に生まれて、その信仰を(自分の意思と逆に)押し付けられていた青豆が、まさにこれじゃん、と思った。

でも読み進めてみたら、「生まれながらの被害者」は青豆の友人の環のことだった。主に。

1Q84: 目的

Book 1, P.267
人々の抱く個別的なイメージを相対化し、そこに人間にとって普遍的な共通項を見いだし、もう一度それを個人にフィードバックすること
これは戎野先生が自分の文化人類学者の精神を天吾に話すところで出てくるセリフの一部なんだけど、これが読書の醍醐味だとも言えると思った。ひいては芸術に分類されるすべてのことに言える。大江健三郎『個人的な体験』のテーマにも、一つにはそういうことも含まれるんだと思っている。

漠然と、だけど、抽象的な/にものごとを考えられない人がかなり多いか多くなった気がする。エピソードの細部にとらわれ過ぎて、(不)整合性とか(無)矛盾とかがないか目を皿にしてるというか。ま、それはそれでいいんだけど、月9のドラマじゃないんだからさ。

あんまり理系とか文系とかっていう風に人間を分類するのは好きじゃないけど、あえて言えば、理系の脳の使い方というか思考法で小説を読んでもしょうがないと思う。数学の神童と言われて育って教える側にまでいった天吾が、作家になろうとしていることはかなり象徴的だ。美しい数学の世界へ逃避できていたのに、やはりそれだけじゃ救われないと悟ったんじゃなかろうか。

だから、ひょっとしたら忙しい人には向かないのかもしれない。特に「字義通りをそのまま実生活で役立てられないような本は価値が無い」というような人には。普段から何かのマニュアルだとか実用書だとか参考書だとかしか読まない人にとっては、ある小説は時間のムダにしかならない。

その視座で言えば、表面も奥も兼ね備えた小説を書ける文豪はやっぱり文豪なんだな、としみじみ思うわ。表層のストーリーだけ追っていっても十分おもしろくて、ぐっ、と読み込むとさらにおもしろい、そういう小説。めったにお目にかかれないけど。

ここから余談だけど、
戎野先生ってイメージ的に大江健三郎っぽいね。黒縁めがねとか。

1Q84: 学生運動、デタッチメントからコミットメント

Book 1のP.220で戎野先生が学生運動のときのことを話す。

デビュー作『風の歌を聴け』から、ハルキワールドの主人公はそういうのにノータッチだった。デタッチメントの姿勢をとっていた。デタッチメントからコミットメントへの転換点は(村上氏自身も言うように)『ねじまき鳥クロニクル』で、それ以前と以降でかなり違って見える。

でも俺、思うの。「興味ない」って言ってデタッチメントの姿勢をとるには、少なくともそう判断するだけの材料は持ってたはずだって。だから、一貫して書いてるんだって。書き方が変わっただけなんだって。ひとつのものごとの無数の側面のうちのどのアングルから書いたかなんだって。本当に興味がなかったらわざわざ、これこれには興味が無いって書かないだろうって。

そう思うの。

1Q84: ありえなさ(非蓋然性)

Book 1, P.190
きわめてありそうにないことだが、まったくないとは断言できない。
チョムゲブログ: 神は妄想である――宗教との決別を書いたときにはあんまりそこには触れなかったけれども、「ありえなさ(非蓋然性)」への言及があった。例として「究極のボーイング747」があがっていた。「地球上に生命が起源する確率は、台風がガラクタ置き場を吹き荒らした結果、運よくボーイング747が組みあがる確率よりも小さい」、つまりありえない、だから何か(神様みたいなもの)がデザインしたに違いない、というのがインテリジェント・デザイン(ID)論者の主張だ。まあこれに関してはそっちを読んでもらったほうがいい。

俺がここで言いたいのは、ありえなさには度合いってものがあるけど、まったくありえないってものごとはないってこと。そしてそれは誰かの意図なんかじゃない。そうじゃないと確率を持ち出すこと自体おかしいことになる。

ちょっとね、『1Q84』から離れたことみたいだけど、読んでて思い出しちまったんだからしょうがない。

1Q84: ディスレクシア、口承文学

ふかえりはディスレクシア(読字障害)を持っている。Book 1のP.181にあるように、アインシュタインやエジソンらもそうだった。調べてみるとわかるけど、ディスレクシアを公にしている著名人はけっこういる。

それはそれとして。

『1Q84』を既に読んだ人は字が読める人でしょう。(誰かに読み聞かせてもらった人以外は)

ふかえりが『平家物語』をそらんじるくだり(Book 1, P.455)はさ、(古典を忘れかけている)多くの読者に軽いディスレクシアを体験させる仕掛けかもしれない。でも、ふかえりがバッハのBWV244(『マタイ受難曲』)をそらんじるくだり(Book 1, P.369)はちょっと違う気がする。ドイツ語を忘れかけている読者って少ないだろうから。ただ、バッハの場合は、それが「歌」であるから、歌詞は理解できなくてもメロディがくっついてくることになる。そうなると、大事なのは字面なんかじゃなくて、メロディだということになる。もっと突っ込むと音韻、言葉の響きということだ。これを『平家物語』の方に適用させると、古かろうが新しかろうが、日本語だろうがドイツ語だろうが関係ないってことがわかる。

もともと平家物語は琵琶法師が弾き語っていたものだ。口承文学だ。今となっては印刷されて本になって売られちゃっているけど、「口伝い」がもとあったかたちだ。こういうのをわざわざ作中に持ち出してくるからには、そこには意図がある。じゃあ、『1Q84』は口承で味わえってことかというと、それは性急すぎると思うけど。

1Q84: 日曜の朝

Book 1, P.165
多くの人々は日曜日の朝を休息の象徴として考える。
でもそれは主人公の天吾にとっては思い出すのも嫌なものごとだ。多くの人々が休息の象徴として考えていればいるほど嫌なものになるんだろう。NHKの集金に連れまわされている身からしたら、他の子供たちがホリデーホリデーしてたらしてるだけ、余計に惨めな気持ちになるから。

俺はどっちかというと「多くの人々」に振り分けられるかな。2009/05/28に書いた「はやく起きた朝は・・・」の「雰囲気が好き」っていうのは番組内の3人の雰囲気、部屋の雰囲気、っていうのもあるけれども、やっぱりなんだかんだで「日曜の朝の雰囲気」が好きってことなんじゃないかと思う。どちらかと言えば曜日の関係ない生活をしている現在でさえ、日曜の朝は他とちょっと違うような気がする。「休息の象徴」とは厳密には違うけど。

ここから余談だけど、
宇多田ヒカルの『ULTRA BLUE』っていうアルバムに「日曜の朝」っていう曲がある。タイトルまんまだ。


1Q84: 代替(不)可能性

Book 1, P.150
「この世の中には、代わりの見つからない人というのはまずいません。」
代替(不)可能性ということについてちょっと考えたことがあった。自然、『1Q84』も頭の片隅に代替(不)可能性を置きながら読んだ。そうすると、この引用だけじゃなくて、作品の中のいたるところにこのテーマが散らばっているように思えた。青豆っていういささか珍しすぎる名字だとか。

さらには(村上春樹の真骨頂)比喩に関しても。比喩ってもともと「言い換え」だと思うの。わかりやすく言えば「言葉の/による代替」だと思うの。

取り替えのきくもの、取り替えのきかないものの分類ってものを意識してみると、けっこう大事なことだと思う。

もちろん、女主人は上の引用の少しあとで青豆に対してこう付け加える。
「あなたみたいな人の代わりはちょっと見つからないだろうけど」
チョムゲブログ: 浅倉南の憂鬱、あるいは同一性、スワンプマンで俺が言いたかったことのひとつは、そういうことなんだよね。

1Q84: ウィスキー

Book 1, P.105
それから男はふと思いついたように、カティサークはあるだろうかと尋ねた。ある、とバーテンダーは言った。悪くない、と青豆は思う。選ぶのがシーバス・リーガルや凝ったシングル・モルトでないところに好感が持てる。バーで必要以上に酒の種類にこだわる人間は、だいたいにおいて性的に淡白だというのが青豆の個人的見解だった。その理由はよくわからない。
これはこの作品の中では、青豆が男の品定めをしているところなんだけど、読んでデジャヴュ覚えた。

村上春樹「雨やどり」(『回転木馬のデッド・ヒート』)P.127
ためしにシーヴァス・リーガルはあるだろうかと訊くと、シーヴァスはちゃんとあった。
「雨やどり」の語り手は村上氏なので、(当時の)村上自身が性的に淡白だった、と暗に言ってるみたいだ。

ここから余談だけど、カティサークって『ねじまき鳥クロニクル』に出てきた気がする。

1Q84: Tomorrow never knows

Book 1, P.12
(略)そんなひどいことになるとは、当時まだ誰ひとりとして知らない。歴史が人に示してくれる最も重要な命題は「当時、先のことは誰にもわかりませんでした」ということかもしれない。
これだよ、これを言いたくてチョムゲブログ: 噛みしめた日を書いたんだよ。

1Q84: ふかえり、綾波レイ

ふかえり。深田絵里子。17歳のベストセラー著者。すぐ浮んだのは綿矢りさだったんだけど、読み進めて彼女のゲンドウを見ていると、どうしてか綾波レイのイメージになってしまった。なってしまったんだからしょうがない。

その線で掘っていく。ふかえりは作中で(主に戎野先生に)「エリ」って呼ばれてて、ローマ字表記で「ERI」だ。実際、Book 2のP.251に「オフィスERI」とある。これをアナグラムでいじると、「ERI」が「REI」になる。

すごく強引に感じるかもだけど、村上氏がこういうことするのは実は初めてでも何でもなくて、例を挙げると、村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』に牧村拓(まきむらひらく)という作家が出てくる。

MAKIMURA HIRAKU

こんなん、アナグラム以上に妥当な解釈ある?

1Q84: 「青豆」という名字

ヒロインの「青豆」という名前が珍しい名字だな、と思った。正直、聞いたことも無かった。

作中で、ルーツが福島県とあったので、福島県出身の知人に聞いてみた。青豆という名字の友達はいたか、知り合いはいたか、そもそも耳にしたことがあるか。答えはNOだった。

ちょっと考えて、そりゃそうだよな、と思った。(すごく)珍しい名字を持ち出してルーツまで設定しちゃってるんだから、実際に福島県に「青豆さん」が少数いたとしたら、これは迷惑以外の何者でもない。それは日本全体まで範囲を広げたところで同じだ。たぶんだけど、青豆という名字の人は日本にはいないんじゃないかな。村上氏は「青豆さん」がいないことをしっかり確認したとさえ思う。

今になって思うと、野暮なことをしたもんだ。「珍しい名前であること」がポイントだからだ。

ここから余談だけど、
ごく最近読んだ本に、「実在の人物をモデルに作品を書くと、ほとんど100パーセントばれる」とあった。これはこの話題にぴったりだな、と思って探してみたら見つからなかった。初めは村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』の「はじめに」を当たってみたんだけれど、見当たらない。ざあーっと全体を見ても、見当たらない。グレイス・ペイリー著(村上春樹訳)『最後の瞬間のすごく大きな変化』の訳者あとがきにもない。本文中もざっと見たところ、見当たらない。

どこで読んだんだっけ?

1Q84: 気になる続編の可能性

1. 発売時の新潮社の売り文句を鵜呑みにするのであれば、
「全2冊」なので完結

2. 入手して実物2冊を見ると、
・「上」「下」ではなく、「Book 1<4月-6月>」、「Book 2<7月-9月>」
・ねじまき鳥クロニクルの例がある(→チョムゲブログ: 『(1+2)+3』の作品
などから、
(例えば)「Book 3<10月-12月>」「Book 4<1月-3月>」もありうる。Book 5以降だってあるいはありうる。(発売前の村上氏の「やたら長い」発言からしても大いにありうる)

3. Book 1, P.159のタマルの言葉
「どこかに必ず最後はあるものだよ。『ここが最後です』っていちいち書かれてないだけだ。ハシゴのいちばん上の段に『ここが最後の段です。これより上には足を載っけないで下さい』って書いてあるか?」
Book 1、Book 2を読み終わって、一応目の前のハシゴは登りきった。もちろん、「ここが最後です」とは書かれてなかった。だから読みながら「もしかしたらBook 2を読み終わる前のどこかで終わってるのかもしれない」とも思った。

だから現時点で「1+2」だけを読んでどうこう言っても良いんではないかと。

4. Book 1, P.368で『平均律クラヴィーア曲集』についてちょこっと書いてある。
全部で二十四曲。第一巻と第二巻をあわせて四十八巻。完全なサイクルがそこに形成される。

ここから余談だけど、
「ヱヴァンゲリヲンは序破急(+α)そろってから」っていうのは(→チョムゲブログ: 破)、それがみんな集まってやっと一つの作品(起承転結みたいに)だと前もって知らされているからです。ハシゴのアナロジーでいくと、初めに最後の段がどこになるのか教えてもらったってところでしょうか。(急にヱヴァ持ってくんなよって? っせ)