2009年2月14日

ポトスライムの舟

お金がなくても、思いっきり無理をしなくても、夢は毎日育ててゆける。契約社員ナガセ29歳、彼女の目標は、自分の年収と同じ世界一周旅行の費用を貯めること、総額163万円。第140回芥川賞受賞作。(Amazonより)
この作品に言及しているブログをばあーっと読んでたら、頭が固いというか、いわゆる「古い」考えを持ったオッサンがいたわ。そのオッサンの意見を一言でまとめると、「こんなのが芥川賞とかありえない」。もうね、馬鹿かと。なんか、どっかの大学で教えてる人らしいんだけど、こんなオッサンに文学について教わりたくないわ。「その時代その時代の世相を書いてるだけじゃ芥川なんかもったいない」みたいなことまでぬかしてて、まあ、それだけならあながち間違ってはいないんだけど。芥川賞選考委員の宮本輝が言うように、この作品は「文学として普遍の力を持っている」と俺は思うよ。まあ人それぞれ、って言ったらお終いですけど。

主人公のナガセは29歳の女性で、大学を卒業して企業に就職するも、そこでの「気違いじみたパワーゲーム」を苦にして辞め、少し期間をあけて、今は工場のラインで働いている。他に、友人のカフェ、老人向けパソコン教室でのアルバイトや、家でデータ入力の内職もしている。いわゆる「就職氷河期」世代であるところに、同年代の俺なんかは親近感を通り越して切実さのようなものまで感じてしまったわけだが、そんなの抜きに、つまり他の世代が読んでも、(共感こそ覚えずとも)この作品にはなんらかの価値を見出すことはできるんじゃないかと思った。

つつましやかに淡々と生きている人のお話で、読後感もわりとさっぱりしていてかつじんわり沁みる。

性描写や暴力表現など、いかにも一昔前の純文学にありがちな部分がほとんどなくて、それが選ばれたことを鑑みて、「芥川賞もまだまだ捨てたもんじゃないじゃん」と思った。先のオッサンはたぶん、「純文学とは~」みたいな概念が固定されちゃったんだろうね。斬新さが斬新であるゆえに陳腐となった状況についてこれなくなったか、あるいはもともとついていく気がなかった(斬新さとか刺激大好き、みたいな)か。どちらにしても、今となっては古くて固い頭になってしまったんだろう。

まあいいや。オッサン叩いても始まんねー。

えーと。

俺はこの作品は単行本を読んだ。単行本には表題作「ポトスライムの舟」のほかに、それより前に発表された「十二月の窓辺」が併録されている。これら二つの作品は内容がすごく対照的に見える。「十二月の窓辺」は、読んでて辛くなるようなかんじ。淡々と書かれた「ポトスライムの舟」の中の「気違いじみたパワーゲーム」をごりごり書いている。

名前こそ違えど、「ポトスライムの舟」の主人公ナガセは、「十二月の窓辺」の主人公ツガワの「その後」であるように読めた。というより、そう読まないとこっちの身が持たない。
  • 「ポトスライムの舟」→「十二月の窓辺」
  • 「十二月の窓辺」→「ポトスライムの舟」
  • 「ポトスライムの舟」のみ
という読み方、つまりどういう経路にしても「ポトスライムの舟」を最終的には読んでいるという読み方をすれば、まだ救われる余地があるし読む価値がある。しかし、
  • 「十二月の窓辺」のみ
という読み方をすると、もうこれは、先に述べた「一昔前の純文学」に成り下がるだろうなと思った。だからこそ、著者である津村記久子は2007年に「十二月の窓辺」を発表したあと2008年に「ポトスライムの舟」を書いたのだろうし、書かざるをえなかった、そして、そこまで書いたからこそ、(三度目の正直で)栄えある芥川賞を受賞するに至ったのだと、なんとなく思うなあ。

まあ、「ポトスライムの舟」単体でもじゅうぶんだけど。



ここから余談ですが、津村記久子氏はカート・ヴォネガットに少なからず影響を受けたようです。本作ではあまり顕著になってませんけど。うーん、見る目あるなと。

5 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

はじめまして。匿名で失礼します。

「ポトスライムの舟」は、インターネット上ではおおむね好評のようですね。ごく一部の方から、「くだらない」とか、「芥川賞に相応しくない」という辛らつなご意見もありますが、そういう方々は、この作品の表面しか読めていないだけという気がします。
そのような感想をご自分で堂々と表明すること自体が、「私はこの作品をちゃんと読めていない愚か者でございます」、と、自ら喧伝してはばからない行為であるという自覚が、きっとないのでしょう。

そういう哀れみの目で見てあげれば、お怒りも少しは治まる気がします。

チョムゲ さんのコメント...

>匿名さん
はじめまして。

辛らつな意見というものが「表面しか読めていない」ことからくる、と言い切る事はたやすいです。また、「この人と違って、自分は深い部分まで読めている」という優越感のようなものを感じることさえできます。

でも、(身も蓋もない言い方をすれば)読み方は人それぞれですよね。(そこはちゃんと記事中に入れました。)

また、感想を表明することもまったくの自由ですよね。それによって議論になれば、著者も書いた甲斐があるというものかもしれません。

というわけで、怒っているわけではありませんし、ましてや愚か者と思ってなどいません。「議論は、合意のみを目的に行うものではありませんし、反発するためのものでもありません。むしろ、相手と意見が違うことを楽し」む、これは高橋昌一郎『理性の限界』(2009/02/14に粗い記事を書きました、参考までに)からの受け売りですが、その通りだと思います。

語彙に乏しいので「古い」とか「固い」といった表現しかできませんでした。それで怒っているふうに受け取られたことと思います。精進します。

チョムゲ さんのコメント...

記事を読み返したら、あきらかに立場を明確にする意図以上に敵意のこもった書き方をしてますね俺。なんだかんだで少しは怒ってるのかもしれません。なかなか理性的にとはいかないものです。ご意見感謝です。精進します。

匿名 さんのコメント...

お返事ありがとうございます。

敵意のこもった書き方も、時には必要なんですけれど、相手によりけりなんですよね。「自分は絶対に正しい」と思い込んでいる人を相手に、真正面から攻撃しても、その人の心は頑なになるばかり。

巨大な岩を砕くために、巨大な鉄のハンマーを使うのもいいですが、その岩の下に、そっとポトスライムの苗を植えて、あとはひたすらじっと待つ。そういう説得の方法も、楽しいものですよ。

よくわからないことを長々と書いてしまってすみません。話を「ポトスライム」に戻しますが、チョムゲさんの書かれた記事、本当に参考になりました。「十二月の窓辺」、私も読んでみようと思います。「ポトスライム」で、ひどく漠然と語られている「パワーゲーム」、それがどういうものだったのか、読んでいてすごく気になっていましたので(^^)

チョムゲ さんのコメント...

>匿名さん
ぜひ「十二月の窓辺」もお読みになるといいと思います。いろんな読み方がありますが、「ポトスライム:Episode0」的な読み方もおもしろいです。また感想をお聞かせください^^